喜久屋書店があった頃

 金沢に来て十年が経とうとしている。
 友人達もみな金沢を去り、私自身も来年は博士課程三年目で、人生の分岐点を迎えつつある。そして、この十年のことをよく思い出すようになった。
 私が始めて金沢の地を踏んだのは1999年の初春、受験でのことだ。第一印象は『寂れた街だな』というものだった。今でこそ観光都市として街中の再整備が進んでいるが、あの頃は郊外への人口流出に歯止めがかからず、街中は荒廃の一途を辿っていた。21世紀美術館もまだ無く、金沢城公園の再整備も始まっていなかった。片町・竪町にはシャッターが目立ち、駅前もがらんとしていた。
 ただ、金沢市の目抜き通り「広坂大通り」を中心に、個性的な本屋が点在し金沢の文化レベルをなんとかかんとか下支えしていたように思う。今年で創業130年を誇る宇都宮書店、児童書専門店である福音館書店。そして、109香林坊の地下には喜久屋書店があった。
 私が喜久屋書店に最も足繁く通っていたのは三回生から五回生の三年間だ。あのころは留年中で、大学にもろくに顔を出さず、たった二万円の家賃を滞納しては日雇いのバイトに駆け巡っていた。酒代と本代を捻出するために月の三分の二はバイトをし、残り三分の一は本屋を巡って本を買いあさった。まだアマゾンが日本に上陸する前のことである。
 そして、そんなバイトの隙間を縫って通っていたのが喜久屋書店だった。
 バイトのない日はとにかく早起きをした。一日を有意義に過ごすためだ。
 朝七時に家を出て、兼六園金沢城趾を散策。疲れたら喫茶店に入ってモーニングを食べながらとりあえず朝刊と文庫本を一冊読む。その後は喜久屋書店へと足を伸ばした。
 喜久屋書店金沢市で最も「気の利いた」、もっと言えば「都会っぽい」本屋だった。広い店内の至る所にソファーや椅子が置いてあり、自由に座って本を選ぶことができた。専門書や学術書も豊富で、一日中いても飽きることはなかった。中央には喫茶コーナーがあって、コーヒー一杯でひたすら粘って文庫本を買いもせずに読んだ。東京の大型書店では当たり前になっていた、手作りのポップ広告で本棚を彩るのも、金沢では喜久屋書店が最初に始めた。一人もの凄く私とフィーリングの合う書店員がいて、彼女が薦める本は全て買って読んだ。バイト代を右から左に散財して、財布も心も軽くするのが本当に楽しかった。
 109の最上階にはシネモンドという金沢唯一のミニシアターがあって、そこで月に十本は映画を観た。映画で暇を潰した後は広坂通りの名曲喫茶「ぱるてぃーた」、柿木畠のジャズバー「もっきりや」で日が暮れるまで喜久屋書店で買った本を読んだ。まだ「フリーター」という言葉が「自由」という甘美な響きを湛えていた時代のことだ。私は毎日が楽しかったし、大学を卒業できなくてもいいや、と考えていた。バイトでもしながら小説でも書くさ、と嘯きながら書き始めることのない小説のアイデアをノートに書きためていた。
 日が暮れて家に帰ると、学業を終えて帰宅した悪友達がアニメをBGM代わりに流しながら酒や麻雀に興じていた。私は家に鍵をかけないことが多かった。そもそも本以外に財産らしい財産を何一つ持ち合わせていなかった。私と同じように留年する仲間もいて、そんな時間が永遠に続くと信じていた。
 だが、実際はそうではなかった。皆次々と卒業して金沢を離れていった。卒業はしなくても、皆学問の世界へと帰って行った。ようやくそこに至って、私は少し自堕落な自分を後悔した。「格差社会」「負け組」といった言葉がマスコミを賑わせ始めたのもその頃だ。
 そして、2004年に突然喜久屋書店が潰れた。周囲の大型書店が同様のサービスを始めたこと、香林坊周辺は慢性的な駐車場不足に陥っていたこと、アマゾンの日本上陸。理由を挙げればきりがないが、とにかく突然にして喜久屋書店は私の生活圏から姿を消した。街中に居場所を無くした私は、少しずつ大学の実験室に顔を出すようになっていった。
 そして一年後、学業に復帰した私は大学を卒業した。
 喜久屋書店の撤退と入れ替わるようにして、街中の再開発が次々と功を奏し、今では金沢は北陸随一の賑わいを取り戻つつある。せめてあと一年持ちこたえていれば、今でも喜久屋書店は金沢の中心街に存在できていたかも知れない。もしそうなっていたら、今の私はどのような生活をしていたのだろうか。やはり喜久屋書店の存在の有無にかかわらず、学問の世界に帰って行ったのだろうか。それとも、今でも毎日だらだらと本を読みながらその日暮らしの生活を続けていたのだろうか。それは残念ながら私にも分からない。
 喜久屋書店の後、ブックス中田という大型書店が入店したが、残念ながら私があの日々を取り戻すことは無かった。そしてそのブックス中田も撤退して、109に現在本屋は存在しない。