無機質を積み上げて作る日常風景

ねたあとに

ねたあとに

山荘での退屈な時間を過ごすために発明(?)された、独創的な「遊び」の数々……ケイバ、顔、それはなんでしょう、軍人将棋。魅惑的な日々の「遊び」が、ひと夏の時間を彩ってゆく。小説家「コモロー」一家の別荘に集う、個性的な(実在する!?)友人たちとの夏の出来事をつづる、大人の青春小説。第一回大江健三郎賞受賞作家による朝日新聞夕刊連載の単行本化。

長嶋有という作家は、たぶんもう物語りを書くことに興味がないのだろう。最近作の『ぼくは落ち着きがない』もそうだったけど、個性的(といっても常識の範囲内のその辺にいそう)な人たちがどこかに集まってだらだらとした時を過ごす、そしてその様子をとにかく細かく描写することでリアリティを出していく。そして、それがなぜかは分からないがもの凄くおもしろいのだ。
 今回、この「ねたあとに」の主人公はコモローたちが集う山荘そのものだ。その証拠に、コモローたちの人間像が細かく描写されることはほとんど無い。人間たちは、読者が最低限の感情移入をするための道具でしかない。その反面、山荘はとにかく細かく描写される。その佇まいから置いてある備品の数々に至るまで、読んでいるうちにその間取りまでが不思議と頭に入ってしまい、その山荘に招かれているかのような気分にまでなってしまう。
 細かい描写、といっても描写されるのは極めて無機質なものばかりだ。コタツや掃除機、電話、電球、風呂場、Etc.。コモローが趣味にしている虫の写真にしても、虫は動物というよりはそこにある『もの』『背景』としてしか描かれない。そして、それらが一つ一つは極めてシンプルに描写されていて、ウェットなノスタルジーみたいな物は意図的に排除されている。この辺は、エッセイ集「電化製品列伝」を読むとなんとなくその理由が分かる。
 このドライな描写の積み重ねは、半分も読むと少しずつ功を奏してくる。登場人物の主観をほとんど交えない、しかしユニークな視点で語られる山荘の数々が、やがて立体的に世界を浮かび上がらせていくのだ。そしてその立体的な世界でどのように振る舞うか、ということが登場人物たちの性格を雄弁に描いていく。これは人間を間接的に描くことでその人間らしさを反って鮮明に描き出す、という実験小説なのだ。
 「物語」を極力排除して、さらに背景となる世界をどこまでも細かく、無機質に拾い上げることによって、最終的にはそこに暮らす人間の生々しさが浮かび上がる。なんともスリリングで実験的で、ユーモアの効いた小説ではないか。