金沢を離れる予感

 本当に久しぶりに、「金沢の想い出」について書こう。
 このブログを始めて約一年、金沢を離れて約三ヶ月になる。
 漁師になろう、と突然思い立ったのは今年の春だが、実は金沢を離れる事になるんじゃないか、と予感めいたものを感じ始めたのはこのブログを始めた頃だ。
 去年の初秋ごろまでは、何となく自分は金沢に骨を埋めるような気がしていて、何でも良いから金沢市民でいられる就職先は無いものかと考えていた。それが突然紅葉の頃に「自分はもうじきここを離れるのではないか」という気がしてきたのだ。そして、なごり雪が降る頃にはこれが金沢最後の雪だとほぼ心を決めていたような気がする。
 住む街を変える最後の一押しは、金沢という街が私の肌に馴染まなくなった、と一月頃感じたときのことだった。友人たちが一人また一人と金沢を去り、去年遂に近所に住んでいた同期の最後の一人が金沢を後にした。一人で初めて迎える冬、火鉢に当たりながらふとそう感じてしまったのだ。
 思えば10年間で金沢という街は大きく様変わりした。一つ言える事は、非常に暮らしやすくなった。香林坊兼六園を中心にバス網が整備され、駅前の再開発は取り敢えずの成功を収めた。「車が無くても住みやすいコンパクトシティ」に変貌を遂げた。国内外からの観光客は激増し、寂れた地方都市は華やかな観光都市になった。
 そして、そのころから金沢という街にちょっとした違和感を感じ始めた。
 思うに、あまりにも他県からのお客様をもてなしたために、他県出身のジモッティという特殊な立ち位置である私まで奇妙な疎外感を感じ始めたのだろう。また、町屋や近江町市場など、市民の生活の場と一体に溶けあっていたものが、観光客を意識して再整備されたせいで私の生活からほんの少しだけ遊離してしまったのだ。先日久しぶりにあった物理学科の同期から、「近江町は雰囲気をディスプレイするテーマパークになってしまった」という言葉を聞き思わず膝を打った。
 再開発に成功してしまったがために、金沢という街は私の肌に合わなくなってしまったのである。
 では七尾はどうかというと、今のところ着古した木綿のように私の肌に馴染んでいる。高校3年間を過ごした栃木市に雰囲気が近いせいもあるかもしれない。七尾の町並みには、まだ「生活の場」としての力強さを感じる。おそらく七尾で最も観光客を意識して再整備された場所である一本杉通りですら、生活をディスプレイしてしまうようなことはない。むしろ観光客を市民の生活の場に引き込んでしまうようなパワーに溢れている気がする。
 いつかここ七尾も私の肌に合わなくなる日が来るのかもしれないが、その頃までには一人前の漁師になって、それこそ自分の港を求めて街を移っていくのも良いかもしれない、と今のところは考えている。