賢坂辻のこと(2)

賢坂辻のこと(1)
 風邪で伏せっていて暇なので、久しぶりに金沢のことについて書こう。
 以前、賢坂辻について書きかけだったので、再び兼六大通りを兼六園に向かって歩いて行こう。
 暁町の交番を少し行ったところに、ユーブックという本屋とかず屋という居酒屋があるところまで書いた。ここをもう少し兼六園の方まで行くと、町名が暁町から横山町になる。横山町というのは、かつてこの界隈に屋敷を構えた横山氏にちなむ。横山氏は前田家重臣加賀八家の一つとして藩政期には要職を歴任、維新後は男爵位を奉じ、実業家として一財産を築いた。前田家が東京に転じて以降は金沢の名士として石川県の近代化に大きく貢献した名家である。戦後の今に至るまで、その町名に名を残していることはその証でもあるだろう。といっても横山氏邸宅は今横山町にはなく、屋敷跡地は住宅街となっている。住宅街の中にぽつんと残る横山地蔵尊が、かろうじて昔の面影を残すのみとなっている。
 そんな界隈をてくてくと歩いて行くと、ふじた酒店が道の左側にある。私が石川県の地酒に惚れ込むきっかけとなった、素晴らしい日本酒専門店だ。兼六園からもほど近いので、金沢に来たら是非利用してほしい。
 さらに兼六園に向かって歩いて行くと、やがて賢坂辻の交差点に着く。かつて市のメインストリートとして栄えた界隈だ。ふっと横町に入れば今でも昔ならではの商店街が広がる。この交差点にある堀田洋菓子店は、金沢で、いや北陸でもトップクラスの洋菓子店だ。最近は隣の建物がコミュニティルームとして開放されており、頼めば店で買った物をその場で食べることもできる。観光でお越しの際は是非ご利用を。横町に入ってすぐのところには松緑という肉屋がある。ここは他の肉屋やスーパーと比べて物が違う。何の肉を買っても美味しい。惣菜も扱っていて、カレーコロッケとメンチカツが絶品。私は肉類は絶対にこの店で買うことにしている。
 さらに横町を歩いて行くと、天神町商店街が広がっている。天神町は椿原天満宮門前町で、商店街沿いに歩いて行くと小立野の麓に椿原天満宮が見えてくる。天神町商店街ではうおがし寿司という寿司屋によく行く。回転寿司ではなくカウンターの寿司屋だが、2,500円からの食べ放題メニューがあって、周囲が貧乏学生街なのもあり、奨学金支給日の前後にはよく学生を見かける。
 話を兼六大通りに戻そう。堀田洋菓子店の向かい側にはラッキーという洋食屋があって、頻繁に利用している。金沢には老舗の洋食屋が何軒もあるが、個人的には一番好きな店だ。金沢名物ハントンライスも扱っているので、観光でお越しの(以下略)。ラッキーの横の民来も老舗のラーメン屋。おじいさんが亡くなって以来昼間だけの営業になってしまったが、今でも営業している。
 ここからは上り坂になっていて、賢坂という名前になっている。地名の成り立ちを考えれば、賢坂辻(剣先辻)という名前がまずあって、賢坂辻に通じる坂道ということで、この名前が付いたことは容易に考え付く。この賢坂を上っていくと、上々南々という焼き鳥屋がある。賢坂辻には珍しく最近できた店で、若い店主ががんばっている。高齢化が進む賢坂辻において、数少ないフレッシュな店だ。さらに上っていくと、惣構堀の遺構がある。惣構堀(そうがまえぼり)というのは、かつて加賀藩関ヶ原の戦い直後に、徳川家との決戦に備えて作らせた外堀の跡である。金沢城にはかつて幅30〜50メートルに及ぶ内堀があり、その水は犀川の上流から引いていた。この水は外堀である惣構堀へと流れ、やがて標高の低い浅野川へと流れていた。天下に太平が訪れた際には用水路として大いに活用されたであろうことは想像に難くない。
 この惣構堀の近くにはふじい食料品店という昔ならではのお店があって、おばあさんとその家族が切り盛りしている。ちょっとした買い物の時には私も頻繁に利用している。また、この辺りはかつて加賀八家の一つ、奥村家の屋敷があった。その跡地には、市立中学校が建ち、その面影はほとんど無い。この界隈は小将町という地名だが、それは藩政期に奥村家と横山家の下級家臣(小将)が多く住んでいたことに由来する。
 あとは平坦な道を歩いて行くと、兼六園下の交差点にたどり着く。兼六園下の交番脇には八重桜の古木があって、なんと今頃が満開だ。桂珈琲店のマスターは、「今頃咲きおって、金沢は人間だけじゃなくて桜まで見栄っ張りの歌舞伎者や」と笑っていた。
 普段は(観光一等地にも関わらず)観光客すらめったに訪れない賢坂辻。週末ETC割引もあって、県外からの観光客が急増している。お暇があれば訪れてほしい隠れた名所、ぜひお越しください。