文士のきもの

文士のきもの

文士のきもの

作家、エッセイストの近藤富枝による、きもの文学史
明治から昭和にかけて活躍した18人の文豪の小説に登場する着物姿、およびその文豪のファッションについてのエッセイ集。非常に興味深くて、あっという間に読み終わってしまった。その豊かな語彙と流れるような筆致から、目の前にその情景がまさに浮かぶ思いだった。

著者が女性のためか、一葉や宇野千代など女性作家への言及が多い。男性作家に関しても、女性登場人物の和服姿に関する記述が多い。
ただ、数ページおきに挿入されるその文豪本人の和服姿にはハッとさせられる。戦前までは昭和に入ってもほとんどの日本人は和服姿だったという。空襲で焼け出され、そこへアメリカから大量に援助物資として洋服が入ってきて、あっという間にきものは日常着の地位を奪われてしまったのだ。
「衣・食・住」という言葉で最初に来ることからも分かるように、きものは財産の中でも最も身近で、最も高価な物だった。そして和服の着こなしは、まさにその為人を表す。
18人の文豪の写真を見て、その着こなしの千差万別な様子にいろいろと考えさせられた。
川端康成の、おそらく大島をラフに着こなす様子。立原正秋の、お召しのアンサンブルをきっちりと着こなす様子。漱石の、まさに漱石、としか言いようがない浴衣姿。女性作家でも、宇野千代の大女優のような派手さ。田村俊子の、襟から羽織までを縞で揃えたどこか妖艶な着こなし。まさに個性の固まりだ。
私もああいった、個性の滲み出た、しかしそれでも礼節を欠かない着こなしがしたいものである。

話は飛ぶが、昨今、若い人の間で和服が徐々に復権しつつあるという。確かに花火大会や縁日で、和服で連れ歩く集団をよく見かける。しかし、ちょっとした違和感を覚えることが多い。若い女性のグループに多いのだが、全員が全く同じ着こなしなのだ。全員体型も、和服の柄も違うはずなのに、である。おそらくグループの中で着付けをできる人が一人しかいないか、どこかジャスコなどの安売り店で適当な着付けをされてしまったのだろう。文字通り取って付けたような着付けで、「馬子にも衣装」にすらなっていないことが多い。これが男の集団だともっと悲惨で、着崩れを直すことすらできず、しかも化繊の浴衣が汗でべっとりとなっていることもあるからたまらない。

和服を着る、という文化はおそらく無くならないだろう。しかし、日本人が布に込めたるその思いはいつかなくなってしまうのではないか、そんな恐怖が少しだけある。