「怒り」を否定しないプリキュア

 今年もプリキュアを卒業できなかった。今年もプリキュア留年である。84年、幼稚園児の時に観ていたとんがり帽子のメモル以来、すでに27年間一度も休まずにこの枠を見続けている。はっきり言って、80歳になっても日曜朝は早起きして見続けている自信がある。そして、50年後の若いアニメファンに向かって「『とんがり帽子のメモル』は神アニメ。」とか、「『どれみと魔女をやめた魔女』が細田守最後の傑作、後は出涸らしに過ぎない」とか言っていると思う。
 今作、二人の人間関係やキャラデザなどで大きく初代に先祖返りした感のある「スイートプリキュア」だけど、一つだけハートキャッチから受け継いだものがある。それは、「怒り」を戦いの原動力にしている点。前作の「堪忍袋の緒が切れました」、そしてスイートの「絶対に許せない」。
 初代〜フレッシュまではどこか魔法の国でいざこざがあって、人間界に妖精(に類するであろうマスコット不思議生命体)が助けを求めに来る、という遙か昔より伝わるテンプレ通りの1話だった。主人公達はとりあえず巻き込まれる形でプリキュアになり、お話が進むにつれてそれぞれ戦う理由(多くは友達のため、であったり悪役に対する怒り、義憤)を見つけていき、それが成長譚として描かれる、というのがテンプレートだった。
 だけど、ハートキャッチとスイートは違うんだよね。巻き込まれる形でプリキュアにはなるんだけど、1話から彼女達は彼女達の戦う理由を既に持っている。それは「怒り」、「目の前で起こっていることが(なんとなく)許せない」というたった一つのことで、彼女達はプリキュアになってとりあえず目の前の敵をぶちのめす。
 これって、個人的には凄く画期的だし格好いいことだと思うんですよ。基本的に、日本人って「怒り」という感情を表に余り出さないし、余り出さない方が良い、という教育を受けるじゃないですか。でも、プリキュア達はただ一つ「許せない」という怒りでもってプリキュアになることを受け入れ、目の前の敵を肉弾戦でもってたたきつぶす。目の前の敵を倒すのに、世界を救うのに理由なんかいらないんですよ。「堪忍袋の緒が切れる」「許せない」それで充分、それだけでぶちのめすに値するのです。その爽快さたるや、私のようなおっさんですらそうなのだから、「女の子らしさ」を幼くして社会や家庭、教育によって押しつけられている幼女たちにとってどれだけ救いになっているのか想像もつきません。また、「怒り」は肯定しても「憎しみ」「恨み」による怒りは否定して見せたハートキャッチラスト2話は女児向けアニメの歴史に新たな1ページを開いたと思います。
 あと、プリキュアと言えばシリーズを重ねる度にその「世界」が広がっていくシリーズでもあります。1作目は、「ふたり」の物語だった。スプラッシュスターは「ふたり」を軸にしたみんなの物語だった。5は女の子達が会社組織*1と戦う話で、フレッシュは「管理社会」と戦う寓話でした。そして、ハートキャッチは日常と戦う少年少女を陰から支える存在としてプリキュアを描きました。明確に、「ふたり」で始まった物語は外へ外へと物語の舞台を広げていっているのです。というわけで、今作のスイートがどこへ向かうのかが今から楽しみでなりません。先祖返りして友達コミュニティの話に戻るのか、アッと驚く外の世界を見せてくれるのか、1年間応援していきたいと思います。

*1:しかも、前世紀風の旧態依然とした男尊女卑の会社組織でした