2回観たらなんだか感動して涙が出てきた


2回観たらその良さが分かった

 ユナイテッドシネマで鑑賞。一応雑感等を。
 首都圏からは一月半遅れで北陸でもロードショーが始まった。今回非常に嬉しかった(?)のはフィルムの状態が非常に悪くて、関東で如何にヘビーローテーションされてきたのかが克明に記されていた点(笑)。シネコンが普及して全国一斉ロードショーが当たり前になった現代において、地方巡業で回ってきた状態の悪いフィルムで映画を観る、というのはかえって新鮮だった。『映画』というものが、フィルムという『物質』と共にはるばるやってくる『文化的なもの』であるという事を久しぶりに実感できた。テレビや動画配信には絶対に無い味わいだった。あと10年もすれば、シネコンを中心にデジタルデータでの配給が当たり前になるかもしれないから、(リバイバル上映や映画祭などでの特別上映を除けば)人生で最後の「質の悪いフィルム体験」だったかもしれない。
 そして、3時間近くあるこの映画を今回は土日で一回ずつ、2回ほど観た。理由は、1回目を観たときにいまいち感情移入できずに「つまらない」と正直感じたから。そして、それを同行してくれた大学の後輩に言ったら、「この映画は観る側にもテンションを強いる作品で、自分は大傑作だと感じた」と言われた。そして、それが妙に心に引っかかっていて、次の日にコンディションを整えて、改めて鑑賞してみた。そうしたら、なぜか2回目は涙が止まらないほどに感動してしまった。1回目同行してくれた後輩には謝っておこう。すまない、おれも大傑作だと思う。絶対にBlu-rayで買う。

非常に丁寧に作られた静謐なフィルム

 ストーリーは今さら説明する必要もないとして、この映画の特徴としてはカメラの位置と音楽の使い方がかなり独特。もっと言えば、実写映画に近い感じ。
 テレビ版のハルヒは、バストアップが中心の所謂アニメ的なアングルが多くて、画面の情報量も正直そう多くないと感じていた。だけど、今作はとにかくカメラが極端に近いか、極端に遠いカットが非常に多い。そして、キャラの表情や、背景の空気感など、情報量が非常に多いと感じた。序盤でキョンが階段を上るシーンでも、やや遠くから俯瞰で階段とキョンを写し、合間に靴や顔のアップが瞬間的に挿入される。歩くシーンなどでも同様。遠方からがっと写したかと思えば、突然アップに移り変わったりする。おそらく、劇場用の大きなスクリーンに耐えられるようにするためと、昔の日本映画へのオマージュ的な意味合い、そして時かけをかなり強く意識した結果の構成・演出だと思うんだけど、そのあたりはどうなんだろうね。
 あとは、3時間の大半においてBGMが無い。これが、フィルムにもの凄い緊張感を与えている。映画全編において常にキョンが喋りっぱなしなために、テレビならともかく劇場大作なので、雰囲気を引き締めるため、そしてクライマックスをより盛り上げるための工夫だと思うんだけど、非常に高いレベルで成功していたように思う。
 ただ、時かけと違って役者(キャラデザ)が銀幕の格じゃない。これはテレビアニメが劇場化した際の避けようのない部分なんだけど、演出意図に対してキャラデザが浮いているような気がして、そこが少し残念。もう少しで広い一般性を獲得できるフィルムになれただけに余計そう感じた。役者が変わっても登場人物の同一性が損なわれないのがアニメの武器だとも思うし、実際に999やのび太の恐竜みたいに、新しくキャラデザを起こし直したり、意図的に絵柄を変えたりして一般性を獲得したアニメ映画もあるので、その辺のもう一工夫があってもよかったと思う。

長門の思いとキョンの選択

 「涼宮ハルヒの憂鬱」とその一連のシリーズというのは、キョンキョンのことが好きな四人の男女による恋の綱引きが世界の形やバランスを形作っている、という構成*1をしているんだけど、その辺が一番強く明示されたのがこの消失だと思う。
 「心」を手に入れた長門が最初にしたのは「恋敵の消失」だった、というオールドファッションなSF。ただ、長門キョンから一方的にハルヒを奪うのではなく、キョンに選択権を残す。それは、新しい世界(長門)と、今までの世界(ハルヒ)のどちらを選ぶのか、という選択だった。選択、といっても長門キョンが自分を選択するように手を尽くす。ハルヒを近くの私立高校に入学させ、小泉という相方もあてがう。学校に風邪を流行らせ、谷口などハルヒの元クラスメートとキョンの接点すらも切断する。しかし、キョンはありとあらゆる障害を乗り越え、改変された世界でもハルヒとの接点を無理矢理作り出してしいく・・・。
 新しい世界というのが「長門の望んだ世界」というのが何よりも切なさを倍加している。長門はただの文芸部員で、図書館で出会った男子生徒に片思いしていて、世話焼きな友人が近所に住んでいて、、、。無感情な宇宙人が世界に対して初めて行った自己主張。しかし、その思いを振り切るかのようにキョンハルヒを選択する。『消失』したのはハルヒなのか、それとも改変された長門なのか、何とも言えない後味を与えてくれる。
 
 ただ長門の恋に関して、ラストシーンである種の救いのようなものも用意されていて、そこで胃の底からため息を漏らしてしまった。

思えば、ゼロ年代ってこういうものだった

 ゼロ年代って、思えばこういう時代だったよなあ、と観ていてしんみり。多分10年後に観たらもう少し色々なことが語れるフィルムだなあ、と思った。そういう意味では、世代や時代を超えられるような作品だとは全く思わないけど、リアルタイムで観た人間にとっては「時間」は乗り越えられる作品になっていると思う。少なくともハルヒをリアルタイムで体験した子供達にとっては、私の世代にとってのエヴァ的な作品になれたんじゃないかなあ。

*1:典型的なセカイ系ってやつね