遺伝子の深い闇

本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源

本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源

 この本とは直接関係ないが、次のような研究結果が報告されている。
 人工筋肉と人工関節で、人間と同等とはいかないまでも、自立歩行が可能な程度の下半身をロボットに与える。さらに、ロボットの頭脳部分に転ばない程度のバランサーと、初歩的な自己学習型アルゴリズムを与える。すると、人間が最初から歩行プログラムを与えたのと同等の歩行能力を学習型アルゴリズムによって獲得する、というものだ。
 このことから、ある種の研究分野の科学者たちはそれぞれの立場から全く異なる結論を導くだろう。生得論者(初歩的かつ根源的な能力は遺伝子や本能としてはじめから与えられている、という立場)は「人工関節と人工筋肉に秘められた『歩く』という能力が学習型アルゴリズムによって引き出された」と主張するだろう。反対に、発達論者(遺伝子に書かれているのはタンパク質などの配列のみで、ほとんどの能力は後発的に獲得していく、という立場)は「これはロボットが学習型アルゴリズムによって『歩く』という能力を獲得した。人間も同様である」と主張するだろう。
 では、ここで考える。果たしてわれわれ人間の能力は遺伝子に書かれているのだろうか?、あるいは与えられた肉体に応じてソフトウェアを後発的に発展させているのだろうか? こうして書くと、「生まれ」と「育ち」とを厳密に分けるのはもの凄く面倒で難しい作業を要することが分かるだろう。
 著者は、発達論者の立場から、具体的な研究事例を挙げ、生得論者たちを細かく批判していく。ちなみに、これは私の立場にもかなり近い。
 例えば、不思議なことに生得論者たちは音楽や数学、文学と言った合理的な検証が難しい分野でしか実験しない。全てのアメリカ人はワシントンの名前を知っているが、ワシントンの名前は遺伝子に書き込まれているわけではない。ではなぜ数学という、おそらく人類が人類に進化してから後発的に発達させたであろう学問に関して予め能力を有している、などと言うことがあるだろうか。「本能は全て遺伝子に書かれている」というのは、「この世界は大いなる知能(神or偉大なる知性or宇宙人、etc.)によって合理的にデザインされている」というのと同じくらい荒唐無稽な考え方である、と著者は批判する。私は読んでいて非常に痛快で楽しかったのだが、人によっては「生まれながらの才能」というファンタジーを壊されてしまう人もいるかも知れない。アインシュタインイチローも、生まれてから周辺の環境や自身の努力によってその能力を獲得したのである。確かに人間の複雑さや、天才たちの桁外れの能力を前に、生まれた瞬間からスタートラインが違っていた、と考えるのは心を軽くするし、一見合理的に見える。しかし、実はスタートラインは同じだったのだ。
 書かれている実験やその結果は極めて簡略*1で、かつ合理的に書かれている。そして、「母性」「コミニュケーション」「数学の才能」「運動能力」などなど、我々が普段その根拠を遺伝子や血筋に求めてしまいがちな物に関して、次々と周辺情報や訓練など、後発的に獲得しているに過ぎないことを明らかにしていく。生得論を訝しんでいた私ですら、読んでいて次々と蒙が啓かれるほどに新しい知識にあふれていて、非常に面白かった。
 しかし、精子バンクやらFC*2やら、生得論に基づく様々なインチキビジネスは日本ですら盛んになりつつあるんだけど、遺伝子以前に血液型占いを信じているような国民だからなあ。やれやれ。

*1:簡略なのはあくまで手法であって、そのアイデア・手間はもの凄く大変なものだ

*2:自閉症患者はコミュニケーション能力を発露できないだけですでに獲得しており、周囲の補助によってこれを外に出してやる、という治療法。はっきり言ってインチキ