偽物語(下) (講談社BOX)

偽物語(下) (講談社BOX)

 西尾維新ライトノベルの騎手、ゼロ年代を代表する作家として挙げる人は多いけれど、そんな人の間でも西尾維新の評価は賛否両論。激賞する人がいる一方で、「理解できない」と切って捨てる人もいる。私としては、「面白い!」と思ったことはないけれど、なぜか目を離せない作家、という評価。
 「戯れ言シリーズ」ではミステリの形式をメタ的に使って、脱本格(脱格)と評された西尾維新だけど、この化物語に始まる一連のシリーズではキャラクター小説・ライトノベルの文法をメタ的に駆使している、という印象だ。ドクロちゃんを始めとして、セルフパロディとしてのライトノベルは過去にもあったんだけど、このシリーズではかなり皮肉・もっと言えば悪意を込めてライトノベルの形式を用いている。
 作中に登場する女の子たちは何らかの“怪異”に取り憑かれたり魅入られたりしてしまい、主人公がそれを落とす、という憑き物落としの話なのだけれど、怪異を落とされた少女たちは所謂“萌え要素”も失ってしまう。
 例えば極端なツンデレキャラの戦場ヶ原ひだぎはツンの部分が取れてただのかわいい女の子になってしまうし、メガネっ子委員長の羽川翼は眼鏡・三つ編みをやめてただの秀才美少女になってしまう。少女たちの記号としての“萌え要素”は憑き物として与えられ、憑き物とともに落とされてしまうのだ。そして反面、自らが怪異的存在である八九寺真宵(幽霊)と忍野忍(吸血鬼)の二人は萌え要素を失わない代わりに、物語を一段高いところからメタ的に見下ろすキャラとして設定され、ストーリーそのものに直接関わることはない。“萌えキャラ”“萌え要素”は「人ならざるもの」として本作では描写されるのだ。西尾維新ライトノベルの形式を徹底的に踏襲しているように見えて、かなり野心的なことをしようとしている。
 今のところこの物語の仕掛けはかなり有効に機能していると思うので、今後の展開に期待。あと、アニメにも期待してる。渡辺あきおがテレビアニメの総作画監督をするのはいついらいだろうか?