震える山

震える山―クールー、食人、狂牛病

震える山―クールー、食人、狂牛病

これは非常に面白かった。そして考えさせられた。
これ、金沢市図書館で偶然借りたんだけど、その装丁と値段から読む前は医学書だと思ってしまった。だけど、中身は医学書というより冒険記録に近い内容だった。もう少し売り方を変えればもっと広く売れただろうに、もったいない。
八十年代初頭、まだ学部生だった著者は、教官の薦めで単身ニューギニアクールー病の調査に乗り込むことになる。クールー病というのはニューギニアの風土病で、当時欧米でも報告され始めた狂牛病と同じく、プリオンによって発症すると考えられていた。
狂牛病と違うのは、ニューギニアクールー病は人間の脳で感染が広がるのだ。つまり、古くから残る食人の風習によって部族の中でプリオンが蓄積され、やがて集団発症へと繋がるのである。著者に与えられた役目は現地調査によってカニバリズムクールー病の関係を明らかにし、病原体がプリオンであることを証明することである。
そして、カニバリズムカーゴカルトが色濃く残るニューギニアへと著者は深く足を踏み入れていく。これだけでも凄い。少なくとも、私には絶対に無理だ。
当時のニューギニアは都市部をちょっと離れるともう電気はなく、本州二つ分ほどの面積に750の部族が住み、それぞれ独自の言語と村社会を持ち、石器時代さながらの生活を送っている。そこでの調査は当初の予想を遙かに超えて困難を極めていく。時間を守らない現地ガイド、おおよそ文明とは無縁な現地住民、などなど。
この本を読んで科学文明に生きる人間とそうでない人間のコミュニケーションの難しさに打ちのめされてしまった。大学で科学と医学を学んだ著者の“論理”が、現地の人々に全く通じないのである。多少の文化ギャップはあると思っていたが、ここまでだとは、正直思わなかった。はっきり言って、「世界残酷物語」ですら生ぬるく感じるエピソードが詰まっている。
ニューギニア島の多くの氏族でクールー病(に限らず全ての病気)は呪いや悪霊によって引き起こされると信じられており、まず著者が医者で、クールー病を研究し治すために来たことを告げても、そのことを納得してくれない。彼らにとって海の向こうからやって来た白人は一種の魔法使いであって、病気を治すためには長い研究を必要としていることが理解出来ないのだ。
しかし、著者は(莫大なストレスを抱えつつも)現地の人々を見下したりはしない。この著者の忍耐強さ、謙虚さは非常に見習いたい。
例えば、呪術者が「クールー病が治らないのは患者が言いつけを守らず、治療の祈りが神に届かなかったから」と主張する。当然科学者であり医者の卵である著者はいったん憤るのだが、すぐに思い直す。アメリカでも、病気が治らないときに医者は「患者が治療に非協力的だからだ」と考える。科学文明に生きていようと大自然に生きていようと人間の本質は大して変わらないのだ、と考えるようになっていく。
また、こんなエピソードもある。著者が村の呪術者を説得し協力を仰ごうとするが、著者がどんなに論理的にクールー病の原因がカニバリズムであることを説いても、全く納得してくれないのである。呪術者は言う。「なぜ原因が分かっているのにあなたは治療出来ないのか?」当然著者はクールー病には潜伏期間があり、二十年前に人肉を食べた人間はもうプリオンに冒されていること、そして病気の治療には研究が必要なことを論理的、科学的に説明していく。しかし、ニューギニアの人々は“時間”の概念を持っていない。未来とは3日後より先のことで、過去とは3日前よりも前のことで、それ以上の時間に関する感覚を持っていないのだ。だから、二十年前の食事が原因で病気が起こる、ということを論理的に認識することが出来ないのである。
著者は言葉は通じるが論理が通じないことに大きなフラストレーションを抱えるが、やがて彼らの論理が(少なくとも彼らの生活の中では)大きくは破綻していないことを認め、呪術に対する敬意のようなものを抱くのだ。
こういった著者の他者に対する敬意、そしてそれでも自分の論理性を疑わない芯の強さは本当に見習いたい。
それにしても繰り返すが、本当にこの装丁と\4500という値段がもったいない。どこかで文庫かソフトカバーで出してくれる出版社はないものか。