緩やかな日常の先にある成長。あと、アニメにおける方言表現

たまゆら 第1巻 (OVA) [Blu-ray]

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たまゆら 第2巻 (OVA) [Blu-ray]

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 久しぶりにOVAを買った。ネット配信も何も確認せずに、ただ佐藤順一監督作品、というだけで購入。こんな買い方をしたのは新房昭之最高傑作「コゼットの肖像」以来。
 中身は所謂、最近流行の女の子日常もの。個人的には女の子日常ものは「苺ましまろ」が異色作にして最高傑作、というアニメ感の持ち主。
 アニメ史的には、この女の子日常ものにおいては、佐藤順一監督作品であるARIA以前以降で変化があったと思っている。それは何かというと、ARIAでは緩やかな日常の果てに「緩やかな成長」がある、というのを盛り込んだ点。ARIA以降の作品では、例えば「けいおん!」なんかは、きちんと人間関係の変化や広がりなどで成長を表現していた*1
 この「たまゆら」でも、緩やかな日常を描きつつもその日常の先にある人生の広がりみたいなものを予感させる造りになっていてちょっと感動した。この緩やかな成長をファンタジーに過ぎない、とか退屈だとか感じる人もいるのかもしれないけれど、大学以降完全なる緩やかな日常を過ごし、流れに身を任せたまま漁師になってしまった私にとってはかなり実感を持って感じられる。
 実は最近、かなり人生観がゆったりしたものに変遷している。30になったけど、やっぱり1日1日の長さは変わらないどころかより長くなっている気がしてならない。毎日読みたい本、観たい映画はたくさんあるし、驚かされることにも事欠かない。今日はあっという間だった、と感じることなんか皆無だ。これが人間的成長なのか退廃なのか、今の私には分からないんだけど、周囲からはどう見えるんだろうか?
 あと、話は変わって地方を舞台にしたアニメにおける方言表現について。
 最近、地方を舞台にしたアニメが多いけど、ほとんどが標準語で作られていることに不満がある。この「たまゆら」についてもそう。ここまで竹原市を前面に出しておきながら、竹原市で生まれ育ったはずの人々が標準語を話している奇妙さが鼻について仕方がない。
 たとえば、実写の映画なんかだと、実際の地名を使用した場合その地方の方言が前面に出ることは普通のことだ。でも、方言で語られるアニメ作品は非常に少ない。強いてあげれば、主要キャラのほとんどが大阪弁を話す「じゃりン子チエ」「アベノ橋魔法商店街」くらいだろうか。
 私は栃木→石川、と移り住み、標準語圏で暮らしたことがない。今でも思考する際に使用するのは栃木弁で、日常会話は金沢弁と七尾弁、栃木弁のちゃんぽん、標準語は読み書きにしか用いていない。だから、地方が舞台なのに登場人物達全員が標準語を話す作品に対して強い違和感を感じてしまう。短期間で集中的にロケを行う実写作品と異なり、複数の仕事を並行して抱える声優・音響監督・脚本によって台詞が形成されるアニメで方言を導入するのは難しいのだろう。だけど、やはり地方を舞台にするからにはその地方の方言を大事にしてもらいたい、と考えるのはやはり我が儘なのだろうか。

*1:だからこそ、みんなが同じ女子大に進学するラストには噴飯もの。原作者ですら自身の作品の良さとテーマを掴みきれないことがある、という好例。