「武士道」の徹底的否定が逆に新しい映画

十三人の刺客

 サンシャインシネマかほくで三回観た。
 この映画が歴史的名作であることは間違いないとして、その映画全般にわたる徹底した「武士道」の否定にクラクラするほど感銘を受けた。
 最近多いじゃないですか。「昔は良かった」「武士道の潔さを云々」的な映画。個人的には、はっきり言って反吐が出るほど嫌いなわけです、そういう価値観。
 なんというか、よく分かんないんですよ、そういうの。私自身は「明日が今日より楽しくなればいい」という価値観でずっと生きてきて、実際毎日楽しく生きてるわけです。親には子供の頃「人生二〇過ぎたらあっという間だよ」と言われたけど、正直中学3年より高校三年、十代よりも二十代の方が体感時間もモノすんごく長く感じてるんですよね。人生をやり直したいか?と聞かれても、はっきり言ってめんどくさいんで結構、というぐらいには、なんにも為していない割に精神的に充足的な人生を送ってきているわけです。私は今月で三十なんだけど、まだ50年もあんのかよ?、とすら思っているほどで・・・。そういった私にとっては、今日よりも昔の方が良い時代だった、というのは理解しがたい感性なわけです。
 だからかもしれないけど、「武士道とは云々・・・」的な価値観が全く理解できない。だって、「武士道」ってかなり非効率的で非人道的倫理観なわけですよ。すぐに人の首を狩りたがるし、自ら腹を割くなんて残酷さに満ちあふれている。首狩り族だって今さらそんなのありがたがったりしませんよ。加えて民主政治でもないのに上司に絶対服従なんて気違いの所行。しかし、そんな昔の黴の生えた余りに非人間的な倫理観に共感する人は多いようです。だったら、私の(以下自粛)な性癖にももう少し理解してくれても良いと思うんですよね。反社会性に関しては良い勝負だと思うんです。
 だからこそ、この映画は痛快だった。
 この映画、徹底的に「武士道」を否定するんですよ。
 まず暴君松平斉韶公。この人が封建政治と武士道の歪みを体現している。武士道を肯定するには、この人に服従することを肯定しなければいけない。しかし、この人はあまりにも人非人なわけです。まず視聴者は、「武士道」についてかなり相対的な視点に放り投げられるわけです。この松平斉韶をほぼ完璧に演じきった稲垣吾郎は俺アカデミー賞助演男優賞確定。いや、稲垣吾郎だけでも入場料以上の価値がありますぜ、まじで。
 さらに、たびたび「武士道」について価値が相対化されるようなシーンが挿入される。例えば刺客が集まった後、剣の稽古をするシーン。これはラストへの伏線にもなっているんだけど、島田新左衛門は卑怯でも良いから足払いをしてでも相手を倒すように言う。そして、最後のクライマックスで、新左衛門は武士道に反するこの足払いによって藩主補佐役の半兵衛を斬るわけだ。武士道に生きた半兵衛は、新左衛門の反武士道的精神に敗れてしまう。
 さらに、最後に生き残るのは新左衛門の甥っ子である新六郎と、山の民である小弥太のみなんだけど、この二人こそ旧時代的な武士道とは相反する二人なんだよね。かたや貧乏旗本のさらに傍流の貧乏侍で、ほとんどばくちで生活の糧を得ている。そしてかたや、封建制度から完全に外れたサンカ。この二人のみが13人+敵300人で生き残った、という事実。これこそが、この映画がやりたかった「武士道の否定」に他ならない。この二人が生き残り、さらに女房恋人の元に返る、という幸せなラストを用意することで、死んでいった者達の虚しさ、彼らが殉じた武士道の空虚さを浮き彫りにしている。
 つまり、制作陣はリメイク、という体裁をとりながらも、「武士道の否定」「明日に生きるという素晴らしさ」という二つのオリジナルテーマを描ききったわけです。しかもエンターテイメント性をまったく損なわずに。
 こういった骨太な時代劇がまだまた日本で作れるという証拠を提示してくれた本作に心から拍手を送りたい。まだまだ日本映画も捨てたもんじゃない。
 ロングランで、石川県ではまだ公開されているので本当にオススメです。