「ゆとり教科書」の弊害を感じる・・・

 先日私塾を始めたことを書いたら思いの外様々な反応を頂いて、個人的に勇気づけられています。
 月額5,000円で五教科全てを見る、という方針もあって、全教科の教科書に目を通しているのだが、私が中学生の時と比べてなんとも薄くなったものだ、というのが正直な感想。いや、個人的にはゆとり教育って悪くはないと思っている。ただ、ゆとり教育をめぐる社会のあり方には問題あり。*1
 薄くなった上で、内容もいろいろと変わっているのだけれど、実は肝心の高校受験や大学受験の問題傾向はあまり変わっていない。教科書が変遷しているのに対して、受験問題が保守的なまま、というのが現代の『経済格差≒教育格差」という傾向を助長している気がする。
 例えば国語。私が中学生の頃は、英語や理科よりも一回り小さい判型で、ページ数は200ページ以上あって、それも読み物や漢字学習が中心だった。しかし、現在の教科書は英語と同じ判型で、その内容も「コミュニュケーション」というのが最重要視されている。単元ごとに議論の仕方などが、それこそ発声の方法から書いてあったりする。生徒によると、授業も例えば短歌なら短歌を読んだり詠んだりすることよりもその短歌についてクラスで感想を言い合ったりすることに割かれているらしい。
 英語も、文法とリーディング中心だった私の頃と比べると、英会話よりの内容となっている。
 しかし、問題なのは肝心の高校受験だ。去年度の石川県の高校受験問題を北國新聞で読んだが、私が中学生の時と問題の傾向はあまり変わっていないように思えた。つまり、現在の中学生達は学校で習った内容とは若干傾向の違う受験問題と立ち向かう必要がある、ということだ。
 さて、ここで問題なのだが、現在のいわゆるゆとり世代の中学生達は、学校の授業内容と高校受験問題の間のギャップをどこで埋めているのだろうか?おそらく、多くの中学生は「ゆとり」によって生まれた時間を利用して塾に通い受験のテクニックを学んでいるのだろう。では、塾に通う余裕が様々な理由で無い生徒達はどうするのだろう。学校ではゆとり教育の名の下受験のテクニックとは無縁の授業を受け、肝心の受験は従来の特殊なテクニックを要するようなテストを受けなければならない。
 このへんのギャップを政治家や教育者達はどう考えているんだろうか。15年位前は、家がどんなに貧しくても学校の宿題さえちゃんとやっていればある程度の進学校に行ける、という状況があったと思うんだけど、教科書と実際のテストの乖離を見ると、現在は学校の勉強だけでは受験を乗り越えられなくなっている気がする。
 というわけで、なんとかしてそのへんのギャップを埋めつつ、さらに教科書よりも一歩学問の本質的な部分に踏み込んだ授業を模索しているんだけど、うーん・・・。
 とりあえず、塾で使われているような大型のホワイトボードを買いました。今のところ、授業料と様々な支出(教科書、参考書などなど)を比べると赤字です・・・。
 まあ、なんとか今見ている子達が中学を卒業する頃までにはなんとか自分の教育法を確立したいなあ、と思っている。

*1:ゆとり教育って『勉強が出来なくても良いじゃない』という考え方だと思うんだけど、ちょっとくらい成績が落ちたくらいでがたがた言い始める世間のありように問題を感じる。