大江健三郎の解説が秀逸

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)

風呂の撹拌棒を人にあげたがる女、鋸を上手に使う娘、北の湖を下の名前で呼ぶフランス人、そして空気の抜けるような相槌をうつ主人公…。自覚のない(少しだけの)変人たちがうろうろと、しかし優しく動き、語りあう不思議なユートピア。柔らかな題名とは裏腹の実験作でもある、第一回大江健三郎賞受賞作。

 大江健三郎の解説が秀逸なので、わざわざ私なんぞが感想を書くまでもないのだけれど、面白かったのでメモ代わりに書いておきたい。
 以前「ねたあとに」の感想を書いたときに、長嶋有は背景をどこまでも細かく描写することによって、そこにいる人間を浮き上がらせる、というようなことを書いた。この「夕子ちゃんの近道」は「ねたあとに」の約三年前、2006年に出版された小説で、確かに今こうして読み返してみると、長嶋有がゆるやかに現在のスタイルを獲得していったことが分かる。
 「夕子ちゃんの近道」でも、様々なアイテムが印象的に登場する。古道具屋の常連さんが贔屓にしているけど、絶対に自分では買わない長いす。充電式じゃない電気歯ブラシ。海猫の鳴き声のような音を出す近所のシャッター。余ったペンキで金色に塗ってしまったノートパソコン。別に物語にはほとんど関係ないけれど、こういったアイテムが、そこに確かに誰かが存在して生活しているような手応えを読者に感じさせる。人間が生活していてその空間が発生するのではなくて、結局のところまず空間があって、そこに人間がやって来る、ということなのだ。その空間と人間との出会いの象徴がフラココ屋の二階部屋なんだろう。最後に主人公は二階部屋を出て行くんだけど、緩やかに時は流れているように見えてきちんと人間は成長し歳を取っていく、というテーマがまさに象徴されているように思う。
 それにしても、この小説に賞を与えしかも素晴らしい解説文を寄稿した大江健三郎の衰えぬ感性と筆力は素晴らしい。